たけしの華麗なる消費生活

消費したモノ・コトについて、書いています。

ペン論 ver.2 (anything)

ペン論 ver.1

結構前にこちらを書きました。5年前ですね。

takeshikarei.hatenablog.com

この中では、

  • v-corn
  • kakuno

について、書きやすさ、に主にフォーカスして紹介しています。確かに、そうだな、ふむふむ、という内容です。

ペン論 ver.2

そして、5年経ってのペン論なのですが、ペンに関する考え方はこちら。

  • なんでも、いい

身も蓋もない感じになってしまいました(汗。確かに書きやすい方がいいのですが、その書きやすさの違いにより、何が変わるのか、というとそこまで変わらないのではないか、と思った次第です。

それよりも、書くこと、自体が重要である、という考え方。とにかく書けるような状況に身を置いておくことの方が大事で、家の中の机のそこかしこに、何かのペンが置いてあったり、カバンも、取り出しやすいところにペンが置いてあります。

それらは、もらったペン、とか、子供が買ったけど使わなくなっているペンだったりしています。何でもいい。書ければいい。ただ、ペンを買わないといけない、という状況になったときには、v-cornをまとめ買いすればいいとは思っています。

(参考1)隈研吾のペン論

別に参考にしたわけではないのですが、建築界の巨匠 隈研吾氏のペンに関する考え方は、僕が考えるのに近いです。引用しておきますね。

基本的に何も持ちません。ポケットにペンがあるくらいで。書きつける紙は、何処に行っても何かしらあります。ペンはホテルの部屋に置いてあるようなものを常に何本か持っています。いいペンだと、ペンの方に気が行ってしまうから、無くしても気にならない方がいい。空港のラウンジやホテルの客室から持ち帰ったペンが、インスピレーションの源となる常にポケットに何本か常備。書き付ける紙は、その都度現場で調達すればいい。時にレストランのメニューの裏に壮大なプロジェクトの発端が現れることも。あまり綺麗にせず、心地いいランダムネスを大切にしているというデスクまわりは、30年来その景色が変わっていない

 そして、こんなことも。

思ったら、書かないと

こちらに書きましたが、認識の世界から記号の世界にすることで、さらに思考が深まっていくと思うのですよね。

takeshikarei.hatenablog.com

隈研吾氏の記事はこちらから。

commons-web.jp

子どもには、どのような習い事をさせるべきか?

とても悩ましい、習い事事情

子どもが少し大きくなると、どのような習い事をさせるべきか、という論点に悩ましく思う人は多いのではないでしょうか。予算は限られているし、周りの知り合いが、あれやこれやと習い事をし始めると、色々と気になってしまいますよね。

僕の人生で、そろばんて触ったことないんだけど、●●君は週に三回もそろばんをやっているとかいう情報を聞くと、え、まぢで、週三回も?!と思うし、モンテッソーリ教育のところに行ってるコの話を聞けば、中学生にでもなれば、ほとんどの人が、結局モンテッソーリでなくなることがわかっていても、焦るものです。

必須な習い事の三カテゴリ

と、そんなことを色々と考えるのですが、少し引いて、どのような習い事をさせるべきか、を整理してみると、こんな感じ。

  1. 専門性がある
  2. チームプレイがある
  3. 習慣化につながる仕掛け

1は、習わないと習得することが難しい。親が教えられない。だから、その専門性のある人・組織に習いにいくしかない、という考え方。バレエ、サッカー、楽器、などがあてはまるかな、と。

2は、習い事をしないと、成立しえないこと。サッカーとかのチームスポーツがこちらに当てはまる。社会にでると、基本はチームプレイ。チームプレイがなくても成立することは多いとも思うが、小さいころから、そちらに絞るのは得策ではないだろう。

3は、その習い事にいかないでもできるのだけど、行くことで習慣化に結び付く、確実になる。これは、公文などの勉強系だろう。別に問題集があるのだけど、外部の人に解いた問題を定期的に提出する、という仕組みは重要だと思う。

おわりに

と、なんだかきれいにまとめた感がありますが、親側の予算や時間もあれば、子ども側のやる気や性格などの制約条件が多々ある中で、どのような習い事をさせるかは、やはり悩ましいですね。定期的に棚卸しながら、調整していくのが、現実的な運用かなとも思いました。何かのご参考になればと思います~

伝えようとするプロセス、わかろうとするプロセスこそが、幸せな時間

糸井重里芦田愛菜の「達人達」

前のエントリーで少し触れましたが、Eテレの「達人達」の糸井重里芦田愛菜の対談は面白かったですね。

芦田愛菜は優秀で、糸井重里と会話がちゃんと成り立っていて、糸井重里も対談中にオブラートに包んで褒めている部分があるんだけど、きっとそれは言葉以上に芦田愛菜の優秀さに驚いていた。僕が見てても、中学二年生で、あそこまで、ちゃんと考えられて、言葉にできるのは、なかなかだなと思った。"Mother"というドラマは坂本裕二による有名な作品の一つだけど、その子役が芦田愛菜だったのか、と。今後の芦田愛菜に注目です。

僕が感動させられた、糸井重里のお話

と、芦田愛菜は良いのだけどw、糸井重里が主軸のチャプタでは、とてもはっとさせられた。というのが、今回のエントリー。

言わずもがな、糸井重里は、コピーライターの超売れっ子だったわけだけど、やはり偶然売れたわけではなくて、言葉をとてもうまく使う、というか、うまく捉えるというか、その言葉の力を知り尽くしている、そんな風に思った。

こちらは、対談の抜粋。

その抽象度は、じれったくて、嫌がるかもしれない

今の時代って、「もっと具体的に」と言われることがものすごく多い時代

「例えば、どういうことですか?」とか

わかるように話せ、と常にされるんだけど、

それを出しちゃうと終わる

終わっちゃう

本当に言いたいのは、伝えきれない気持ちの方を言いたい

「あぁ、伝わった」という喜び以上に言いたいのは、

「こんなにたくさんあって、伝えきれない」っていう話がしたいのに、

「わからせてください」って言われちゃうと、どうにもなんなくて

・・・

海を見たときに、「これが海ですよ」って

あまりにも簡単に言いたくないなと思ったときに、

言葉が生まれかけている

難しいって言ったときには、もう言葉が生まれかけている

これを見ていて、なんだか感動しちゃいました。いまの世の中のそこかしこで起きている会話をこのように捉えて、考えている人がいるのか、と。

伝えようとするプロセス、わかろうとするプロセスが、幸せな時間

正直、僕は、いま時の世の中のど真ん中の人。具体的にそして端的に言葉をキャッチして、具体的に端的に言葉を投げたい。そういうのが、優れたビジネスコミュニケーションとされる場合が多くて、そのようなビジネスコミュニケーションを、プライベートにも持ち出しちゃっている痛いヤツだと思う。

きっとそれは、何かのインプットを得て、何かのアウトプットをするという生産性を考えたときの、生産性が高いか?の問いには、正しい言葉の使い方なんだろうけど、それが、幸せなのか?人生を豊かにしているのか?という問いには、正しい言葉の使い方ではないのかもしれないな、と思った次第。

何かを伝えようとしているプロセスが幸せなのかもしれないし、それを聞いてわかろうとするプロセスが、幸せな時間なのかもしれない。

きっと、奥さんなのか恋人が長い話をして何かを伝えようとしているとき、そして、それを聞いて何を伝えようとしているのかを考えてわかろうとしているときこそが、とても幸せなのだろうな、と思った。

これは、いままで考えたこともなかった気づき。すごく感動したのでした。