たけしの華麗なる消費生活

消費したモノ・コトについて、書いています。

村上春樹という物語を読んでみた (「走ることことについて語るときに僕の語ること」村上春樹)

世界的に著名であり、ユニーク極まりない作品を継続的に世に出し、世に受け入れられている作家。村上春樹。なんだか自分とは全く異なる毎日を過ごしている様な気がしてならなかった。しかし、この本を読んでみると、そんな世界的な作家でも、自分との共通点があり、当たり前だけど、人間なんてそんなに変わらないのだ、という安心をさせられたというお話。

それにしても、村上春樹が、走ること、をしていなかったら、これほどまで沢山の世界に通じる作品を創り続けることはできていたのであろうか、と思わされる。この本を読んでみると、走ることの間であり、それを基点とした日常生活の中で行われる思考と身体と精神が、彼の作品のファンダメンタルであることがわかるため。ある種衝撃的な内容の本であったなぁ、と。

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さて、実は、中学だか高校の頃は、友人で村上春樹を好きな人がいて、彼の影響で、私自身も随分村上春樹の物語作品を読んでいた。しかし、大学だか社会人になったら、いつの間にか読まなくなって、読んだとしても、途中で挫折することが多くなっていた。

村上春樹の物語作品は、やはり独特であって、その独特が当然だけど物語全体で続くのだけれども、その独特を味わい続けることが、いつの頃だか、閾値を超えてしまったようなのですよね。まあ、人生の一時期に適した本なのかもしれない、とか勝手に片付けたりしたりして。

でも、村上春樹の物語ではない作品を初めて読んでみて思うのは、彼のフィルタにかかって現実を見てみれば、それは、物語の一部とでも思える様な見え方がするものなのね、という印象を受けたわけですね。造りモノの物語ではないのだけど、村上春樹の物語ではないか、これは。ということです。

ここで、所謂「作家」というプロフェッショナリズムを感じたわけです。物語ではなくて、村上春樹という物語を読んでみて。結局、物語というのは、作家のモノコトの見方であり、その見方を表現する、ということを文章という手段で実現していくわけですが。その見方と表現というのは、別に造りモノの物語に限ったわけではなくて、日常生活全てが物語にもあてはまるのだな、と。

読み終えてみて、なんだか面白い気づきを得られた本なのかな、と思いました。そして、私も走ろう、と思いました。村上春樹ですら、走ることで、安定を得ているのだから、私も走るべきだな、とシンプルに思ったわけです。(勿論、全ての人に適用できるわけではない至極当たり前のことは認識しつつも、私もちょいちょいランニングをしたりしていたので、結びつけたわけです、はい。)