たけしの華麗なる消費生活

消費したモノ・コトについて、書いています。

「戦略経営者」という職業

日本のビジネスシーンのトップランナー、三枝匡さん

少し前のエントリーで小出ししましたが、ミスミの三枝さんの最新刊である「ザ・会社改造」を読みました。すごーーーく熱くて熱くて一気に読みました。三部作から三枝さんに憧れていましたが、この本を読むと更に、三枝さんへの尊敬の念が高まります。

この本は、ミスミのCEOに就いた三枝さんのお話が書かれていて、10数年の取組みの結果、一つの会社がグローバル企業となり、世界的な競争力を有するだけでなく、ビジネスモデルとして稀有な存在になりうるまでの過程の一端を垣間見るという意味で、とても興味深かったりします。

本の中では、前にも書いたように、フレームワークの重要性や必要性に触れており、ただの知識ではなく、ビジネスの最前線で最大限に活用する位置づけとしてのフレームワークとして、フレームワークの価値を再認識することができる意味でも、価値があるのではないかと勝手に思います。

「戦略経営者」という職業

しかし、個人的に、読んでいて、目が留まったのは、「戦略経営者」という言葉。

三枝さんは、新卒でこそ三井化学に就職するものの、その後は、ボストンコンサルティンググループの日本人第一号、スタンフォードMBAを経て、30代で大企業の社長を経験、その後、ベンチャーキャピタルで数十億円規模の投資、ターンアラウンドのスペシャリスト、とった経歴を持ちますが。

その一つ一つが、当時の日本ではあまり見られないポジションであり、その後の日本のキャリアデザインのベストプラクティス的な職歴を、トップランナーとして歩んできたといっても過言ではないでしょう。

で、書かれていたのが、「戦略経営者」という言葉。彼は、経営者なわけだけど、その出自からもあるように、営業出身でも管理部門出身でもなく、戦略、を生業とした経営者なのだけど、それを一つの言葉にしていたわけです。

で、その言葉に目が留まった。僕も、戦略に携わることが多いキャリアなわけですが、自分のキャリアの中で目指す、あるべき姿ってなんだろう、と思ったとき、「戦略経営者」ということばに妙に腑に落ちたし、あと20年以上働くことを考えたとき、どんなビジネスパーソンになるのだろうか、目指すのだろうか、と考えたときに、この「戦略経営者」になりたいのかもしれない、と思ったわけです。実に刺さった本でした。

「戦略経営者」とは何か

「戦略経営者」と書くと、何か血の通っていないロジック至上主義のつまらない経営者と受け取る人がいるかもしれないが、それは全くの間違いだ。結局、会社であり事業が成長するためにある戦略とは、そのロジカルな正しさだけでなく、それに関わる人が、きらきらと光らないといけないわけで、そんな人目線も含めた戦略性を備えた経営者と言えると思います。

本を読んでいくと、三枝さんは、戦略経営者でありながら、きめ細かいコミュニケーションを社員ととる様が伺えていて、新鮮だった。能力開発として、成長性の高い人材を選び、何度の高い課題を与えながらも、寄り添う姿や、飲み会で社員とともに、喜びを分かち合う様など、経営における大事な部分も垣間見れると思います。

結局、戦略経営者でも営業経営者でも、目的は同じだし、その達成のために、必要なことは変わらないのかもしれない、とも思います。戦略も必要だし、人材の能力開発でありモチベーションの最大化も必要であり、そのアプローチに戦略性があるかどうかなのかな、と思ったりします。

そのように、経営に関する思考を多面的にめぐらすことができる、という意味でも、この本を読む価値はあるのかな、と思います。いい年頃の方は、ぜひご一読下さい。

理論と実践のブリッジツールとしての経営書

秀逸なポジションを取った経営書「世界の経営学者はいま何を考えているのか」

2016年にハーバードビジネスレビューの読者が選ぶベスト経営者のNo1に選ばれていたということで、遅ればせながら、一気に読んでみました。

まず、読んでみて思うのは、冒頭部分にあるのですが、本としてのポジションの取り方が面白いということです。ハーバードビジネスレビューが学術書ではなく、実用向けの論文集ということで最先端の内容ではないよ、であるとか、ドラッカーの思想としては良いけど、定量的な論拠に基づく科学ではないよ、であるとか、ポーターはちょっと古いよ、みたいなことが書かれていて、読者にとって身近なコンテンツについて、最先端ではない、と言い切り、読者の自尊心をくすぐったところで、幾つかの経営学のテーマについて紹介しています。このような本の読者は、大概巷にある本を読み漁っているので、そんなことを言われると焦るわけです。狙い定めたイントロといったところでしょうか。

しかし、中身を読んでみると、そんなに斬新なテーマはなかったかな、と思います。一橋大学大学院の楠木さんは、理論と実践の行ったり来たりが大事と言っていますが、経営の先端で、理論と実践をいったりきたりしている人にとっては、経営の断片に関する思考を巡らすわけですが、それらのどこかに当てはまる内容なのかな、と思います。

それは、逆説的なのですが、経営学が科学であり、定量的な論拠に基づくものであり、ドラッカーを引き合いに出したにもかかわらず、本としては、科学的な根拠の紹介は薄くエッセイ的にして、読み手が読みやすいような仕立てにしたことにあるかもしれませんね。最先端なのだけど、そんなに最近のことではないのも関係あると思います。まあ、学問なので、毎月新しい理論やフレームワークが生まれるわけではない時間軸、ということも関係あるでしょうね。

ほとんどの組織に当てはめて考えられる理論。トランザクションメモリー

とはいえ、自分が日頃考えていることに関する理論として、整理する意味ではよかったテーマがありました。まさに、楠木さんが書いた通りのお話です。

トランザクションメモリー:組織の記憶力に重要なことは、組織全体が何を覚えているかではなく、組織の各メンバーが他メンバーの誰が何を知っているか、を知っておくことである。英語で言えば、Whatではなく、Who knows whatであるということ

組織運営として、いかに組織の能力を最大化するか、は大きな論点だと思います。これは、短期的にも中長期的にもある論点かな、と思います。とある1つの組織の仕組み設計であるとか、会社としての仕組み設計などに関連する部分です。前者は、ちょっとしたルールやエクセルでの整理で片付く話かもしれないし、後者は、システム構築や組織組織設計、ちょっとした風土(会社内部活などもそう)の醸成などが出口としてあるでしょう。

これらの仕組み設計の拠り所となる理論がトランザクションメモリーということです。あなたの、私の携わる会社組織の1つの仕組みには、そんな経営理論があったりするのは結構面白いと思います。そして、そうした経営理論として抽象化され、その経営理論があるがゆえに俯瞰的に自分の所属する組織をみてみることで、さらに具体的な打ち手として、色々と思いつくでしょう。それが、楠木さんの話なのですが、それが理論の活用の仕方なのだと思います。

経営学は、理論と実践のブリッジツール

そういう意味で、最後の方で、経営学は役に立つのか?と、異なる視点から経営学を見つめているのですが、個人的には役に立つ、と思っています。でも、世界の経営者がいま考えている経営学である必要はないかと思います。私たちが日々経営である仕事をする中で、実践の一方にある経営学、の方法論やフレームワーク、それらがあることで、僕たちの実践の整理や意味合いを考える上でのツールとして役立てれば、と。

最近、これも遅ればせながら、ミスミの三枝匡さんの「ザ・会社改造」を読みました。彼は戦略経営者として、フレームワークの重要性を説いているのですが、本に出てくるのは、プロダクトポートフォリオマトリクスやABC分析による原価管理のフレームワークです。これらは古典的なフレームワークであり、最先端では全くありません。しかし、これらのフレームワークのメリットもデメリットも理解しきった上で、実用的であるとして採用し、ミスミにカスタムされたフレームワークとして活用しきっているわけです。

理論と実践のいったりきたりなわけですが、どんな理論でも良いわけでなく、使い勝手の良い理論であれば良いのでは、と思うわけです。そういう意味では、最先端でなくても良いのですが、最先端でも良いわけですが、業界や業種が異なる広範なビジネスの中で、いかに有効なフレームワークを経営学の中から抽出できるか、が事業経営者のセンスなのかもしれないな、と思った次第です。

幼稚園ネットワークの"Pay Forward"

最近、体力的には持て余していないのだけど(朝5時くらいから子供が騒いでて睡眠少なくなってんすよ)、精神的には持て余しまくっていて、今日はちょっと面白いヤツからちょっと面白い話を聞いたので、取り急ぎ、全然関係ないけど、ブログを書いてみた。

幼稚園ネットワークの "Pay Forward"

さて、僕は結構メモを書く方ですが、メモを整理していたら、少し前のメモが出てきて、結構良い事が書かれていたので、そこから考えたことを文章にしてみました。

幼稚園のネットワークの話なのですが、所謂、Pay Forward、のことが書かれています。Pay Forward、は少し前に映画でありましたが、自分が誰かから良い行為を受けたら、自分も誰かに良い行為をする、という好循環の意味です。僕は、この考え方が好きです。

幼稚園ネットワークは、ここでは、小さな子供達が中心となって成立する、子供と親のネットワークを意味していますが、メモのPay Forward、は、誰かの親が誰かの親にした良い行為がどんどん広がっていく様を表しています。

具体的には、とある同級生の母親が、幼稚園に通う子供の妹の洋服やツールを、私の内にくれた話です。借りた、わけではなく、頂きました。さわやかに。小さな子供の洋服やツールは、数ヶ月から長くても1年くらいしか利用しないので、経済合理性は基本低いわけで、頂く、のは少なからず助かるわけです。

さて、そうこうするうちに、うちの子供が少し大きくなりました。すると、もう使わなくなるツールがあったりするのですが、うちは、他の同級生の数か月違いの妹さんに、そのツールをあげたわけです。さわやかに。

これが、幼稚園ネットワークのPay Forward、ってやつです。その先も、誰かの妹さんのツールになっている、かどうかはわかりませんが、少なくとも、二つの家庭にポジティブな影響を及ぼした。これって、少し奇跡的なことだったりするかも、とか勝手に思うのですよね。

その奇跡的な出来事を引き起こしたのは、とある同級生の母親のさわやかな優しさだったりします。Pay Forward、には起源があるわけですが、その起源となる人って、とても偉大だよな、とも思ったりします。

ちなみに、その母親は、もともと教師の方でした。キャリアの意思決定だけでなく、日々の行為の意思決定が、一つのステキな思想というか原理に基づいているのかもしれないな、と想像したとき、ちょっぴり感動したりもしました。

Pay forward実体験からの"giver"目線の振り返り

全然関係ないですが、少し前にメルカリの売れ筋カテゴリの記事を読んでいたら、トップ5の一つが、子供服だそうです。上記にも書いた通り、一定期間で利用できなくなり、でも捨てるわけでもない状態であるモノは、フリマの商材に適していますよね。

ネットのフリマの経済的なプラットフォームにおける最適な価値交換により、捨てられるどころか、誰かが喜ぶ、のって良いことですよね。メルカリの企業紹介ページなんて見たことないけど、そういった理念が書かれているのかもしれませんね。

それも否定しないのですけど、この幼稚園ネットワークで生まれるPay Fowardの好循環ていいよな、とか思うのですよね。そして、そういった、Pay Forwardの好循環って、昭和だか大正時代の日本のそこかしこの町にあったリアルな光景だったのではないか、とか勝手に想像します。

そして、次に考えるのは、その好循環の起源の難しさについて、になるわけですが、先に出させていただいたような母親はこの日本に何人いるのだろうか、と。そして、そのループを自覚的に引き起こせないだろうか。とも思ったりして、USでちょっと騒がれている狭域型SNSのNext Doorをチェックしたりするけど。仕組みとしての好循環の設計とか、好意の行為のインセンティブ設計とかって、先の自発的な好意の好循環を実体験してみると、なんだか寒い思考だな、とかとも思ったりします。

そんな思考が一巡した後、結局、僕はどれだけgiverになれて、ボランティアなのかビジネスなのかわからないけど、好循環を引き起こせるのか、起こせたのか、といった、今日一日の振り返りに戻ったりするわけです。

つらつらといろいろ書いてしまいましたが、ブログてそんなもんだよね。それにしても、メモ一枚でいろいろ考えてしまうものだ。